その前1年間,高校を出てから,当時紅白(歌合戦)の白組のバックをやってた「小野満とスイングビーバーズ」でボーヤをやってました。高校時代ブラスバンドをやっててビッグバンドが好きでした。1981年くらいかな? 19歳で,そこで,プロは初見ができないとダメ,雰囲気を感じ取り最適な仕事をする,好き嫌いじゃない,ということを学びました。
ただ,ビッグバンドはサラリーマン化してて好きでやってるのに愚痴が出るんですね。高校を出てすぐのすれてないところで, いきなりそういうところを見てしまって。人気歌手のバックや, テレビ番組(NHK歌謡ショー), ディナーショー等でやってたんですが, 演歌以外は加山雄三くらいで,演歌主体だったのがどうしても嫌でした。自分が好きな音楽をやってる人に習いたいと思って,その好きなドラマーのひとりが岡本郭男さんだったわけです。元々MMPが好き,というか,キャンディーズのファンだったので直樹さんが参加している渡辺茂樹さんの流れでスペクトラムは当然知ってて,MMPとドラムが変わっててそれが岡本さんでした。そういう意味ではスペクトラムの一ファンとして知っていました。
紅白を最後にスイングビーバーズのボーヤをやめさせていただいたんですが,その前の11月くらいに公衆電話で岡本さんに・・・。というのは, 岡本さんの番号がが電話帳に載っていて。(笑)『スウィング・ジャーナル』や『ジャズ年鑑』には当時, ミュージシャンの住所とかが平気で載っていたんです,渡嘉敷さんとかも。
音源としてはライブを見に行ってたわけじゃないので,自分の気に入ってた中の誰でもよかったんですね。それで,電話帳で調べたら岡本郭男って載ってて。
で, 岡本さんに電話したら留守電だったんですが,留守電のメッセージの声がスペクトラムの曲のカウントと同じだったので,本人だなってわかりました。何度か(電話を)掛けてたら出てくれて。渡嘉敷さんとかにも掛けてたんですが,最初につながったのが岡本さんでした。
ちょうどスペクトラムが解散して自分で(機材を)運んでる時期で,ボーヤに内定していた博多の奴がいつから(東京に)来られるのかまだはっきりしない,ということで,自分は正月明けから出られるということで,ボーヤとしてお世話になることになりました。博多の人が(次のボーヤとして既に)いるということで,まあ1年くらいかな?というのが最初から自分の中でありました。ただ,ボーヤをやってる間,1年間という話は,(岡本さんと)二人の間で一度も出なかったようには思います・・・が記憶が曖昧です。正月明けから仕事が始まって,免許が当時なくて貧乏で車もなかったので,(岡本さんの)家まで岡本さんを迎えに行って,そこから岡本さんの車で現場に向かうという仕事が始まりました。運転も岡本さん。どうしておまえ免許とって出てこなかったんだって話もありました。でも卒業式の次の日にもう自分は東京にいたので。
14歳。キャリアは長い。(笑)元々ジャズ系が好きでフュージョン系,当時「クロスオーバー」と言われた音楽が「フュージョン」に変わる時期で,渡辺香津美,Weather Report・・・。
岡本さんも好きですが,その割にはPeter Erskineのことはあんまり言わない。(笑)
あと,中学時代,CarpentersのYesterday Once Moreで心を打たれて,そこから始まって,またビートルズに戻ったり。Zeppとかのハードロックには行かなかったです。柳ヶ瀬のキャバレーのハコバンのドラマーさんにかわいがっていただいて教えていただきました。中学生なのにキャバレーに出入りしてて,職員用の通用口から入ってました。当時もうプロの仕事は理解できてました。ドラムの譜面も見ていてわかってましたね。未だにいい加減な譜面を見ると腹が立ちます(笑)。
サインペンで書き込むのが好きなんですよ。(笑)
そんなこんなでBGM,歌謡曲で流行っているのをサックスがリードをとって,という感じで。たまにヌードショーもやってたんですが,ヌードショーの譜面は結構面白い。ショータイムは9時からとか11時からとかで30分ずつくらい,ゲスト出演の時は7時から7時半とかの30分を4ステージくらいかな。中学から高校にかけて,代わりに叩かせてもらうなどもしてました。でも東京に行ったら全然通用しなかった。スタジオはもっと凄かったです。ギターの上手い下手はよくわからなかったんですが,スタジオに来てる人はやっぱりうまいと思ったり。
中学時代,フォーククラブ,当時は部活とクラブの両方あって,部活は陸上でクラブがフォークギタークラブでした。親父にギターを買ってもらって,「かぐや姫」「小椋佳」が弾けるように,30人くらい,週に2〜3回練習してましたが,どれだけやっても俺だけ覚えるペースが遅かったんです。コードとか。それで俺には絶対ギターは無理だとわかってギターはクラブごと半年でやめました。けど,音楽はずっと好きで,何が目立つかを考えて,ギターは前にいれば目立つけど,ドラムもでかいから目立つと思って,ドラムをやってみようと思って,教則本を買って, 当時はビデオとかないのでテレビを食い入るように見ました。ハイハットをどうやって叩く,とか,楽器の数,タムの数がそれぞれ違うので,わからないままやっていて,それでキャバレーの人と出会ったんです。それでさっきの話に続くわけです。
日本人なら岡本郭男って言っておかないといけないかな。(笑)。ツーバスで今風にやるのは好きじゃない。あと(ジェフ・)ポーカロのような歌心のあるドラマーが好きです。間の取り方,その代表的なのがポーカロ。岡本さんはポーカロをずっと聞いてるので,岡本さんがやってる曲は安心して聞けますね。あと,ナイロンチップの音が嫌いです。シンバルの音が明確だけどあったかみがない。
声がでかくて明瞭な人。裏表がなさそう。
新橋の, スタジオの名前は忘れましたが,初めて会った時そこで待ち合わせました。そこでの仕事が終わる時間にそこに行ったら,岡本さんがちょうど1階に降りてきて楽器をエレベーターから出してる時で,向こうは俺を知らないけど,エレベーターの扉を抑えながら楽器を運んでる最中で,その姿勢のところで挨拶して手伝いました。セドリックのワゴンに一緒に積んで、乗れって言われて。それが出会った瞬間です。
楽器を車から降ろして,ドラムを演奏する場所に運んでセットアップして,ケースが邪魔にならないところに片付ける。これが結構重要で,自分がいいと思ってもジャックがあったりしてベースが来たら(ケースが)邪魔になったってことになるので。それで入りが終わり。
あの当時は灰皿と譜面台,ヘッドフォンはチェックしてました。灰皿も(卓上用の)銀ではなく筒のでかいのじゃないとダメ。高さもです。普通の灰皿を床置きではだめ。みよし(今のおかもっちのボーヤさん)がそこまで気を遣ってるかが心配(笑)。使えるようにしてあげるのが大事。
今はいろいろ便利に変わってるかも知れませんね。
スネアの位置,ハイハットとの間隔,ハイハットの前後,タムはあの頃からロジャースはロックがついてました。あとシンバルの位置。1mmは自分ではわからないんですが3mm違うとわかるので自分でいやなんです。フェルトが大事で,叩いてるうちに変な格好になってしまうので,シンバルが絶えず同じ位置に来るようにフェルトに気を遣ってました。フロア側のトップシンバルの右は特に大事で僕は気になります。
元々「俺はこういうドラマーになってもいいの?」って自問自答した上で,岡本さんに電話したんですね。だからそこまでやれるのかもしれない。自分の頭に中にあるセッティングを全部白紙にして岡本さんのセッティングにしてるので,岡本さんのセッティング=自分のセッティング,でした。未だに岡本さんのセッティング=自分のセッティングです。最近ライドシンバルをクラッシュの代わりに使いたいためか角度が昔に比べて浅くなっていて,それが気に入らない!(笑)あと,こないだ飲み会に行ったときに判明したんですが,ジルジャンのKシリーズ,(岡本さんに)合わないですね。普通のAシリーズのロックライドのほうが音楽的にBLUFF等に合う気がします。
Paisteは堅いからクリアな音がするけど最大の欠点は割れやすいこと。(岡本さんは)トップシンバルをもっともらえばいいんですが。
セッティングは僕もこだわりたかったし,皆申し合わせたのように,当時はバスドラが22インチばっかで,岡本さんは24を叩きこなせると思ってました。赤(ワインレッド)のRogersを買うとき,その機会が来たので,僕はそれを買うと決めてて勧めました。自転車と一緒で20インチしか乗れない人は乗れないけど,24インチに乗れるんだから乗ったら?と言った覚えがあります。24にすると,今みたいにラックシステムなんてなかったから,タムホルダーも高くなって,それだけタムの位置が全部上がるので,身長がないと叩けないんです。いろいろ言ったけど,(岡本さんは)殆ど右から左で。(笑)バスドラを踏むと24だとビーターの位置を真ん中にもってき易いんです。ただ,22に比べてゴーゴーいう雑音が出やすかった。マイクを通せば問題はなかったんですが,叩く位置で聞くと,「ドン」の中に「ゴン」が入る感じ,「ド」と「ゴ」が一緒になった感じで。一瞬耳障りで失敗したかな?と思いましたが,マイクを通して聞くと全然問題なくて,音が低くて16のフロアとの相性はいいと思います。
本番中とリハはコマーシャルの仕事とか,シングルのAB(面)だったり2時間はコマーシャル,1時〜3時はどこどこスタジオ,4〜6時間ならレコーディングだな,とわかりました。1週間〜2週間前にだいたいスケジュールがわかるんです。大きい仕事は何月何日と1ヶ月くらい前にはわかるんですが。あの当時のノートがまだ家にあります。今日持ってくればよかったですね。岡本さんの直筆の書き込みもあります。
で,譜面が配られると僕は興味津々で,岡本さんはもちろんですが,ドンカマ一発で決まる。テンポをくれるので,1,2,3でバンと出す。だいたい1発で決まります。何度か練習して,1テイク目,2テイク目,「はいOKです,次15秒バージョンです」,みたいな。アレンジャー=その場をまとめる人で,ドラム,ベース,生ピアノ,パーカッション,そのあたりを含めてリズムセクションで,その面々が僕のあこがれの人ばかりで,今考えるとものすごく贅沢な音楽を聴いていました。大きいスタジオだと,Aスタジオで岡本さん,Bで林(立夫)さん,Cであおじゅん(青山純)さん,Dでポンタ(村上秀一)さん,みたいなふうで,毎日そんなふうでした。
Nスタというテレビ朝日のところでは,トイレに行って戻って部屋を間違えたら,そこが林さんだった,みたいな。休憩の時にちらっと楽器を見に行ったり,ポンタさんがちらっと見に来て,「あれ,岡本くんは?」と聞いて,「多分コーヒーを飲みに行ったと思います」と答えたら,3つくらい叩いて,「これは岡本君しか叩けねえよ」とおっしゃってたり。エヴァンス(Evans) のハイドローリックブルー(Hydraulic Blue)というヘッドで,ロジャースは厚胴で有名で,シェルの厚みが1cm, それに二重ヘッド, 中にオイルが入ってて, そのオイルがミュートの役目をする70年代に流行ってたヘッドをつけてて,それはサスティンが短いんです。スタジオではマイク乗りがよくて耐久性がある, チューニングがしやすい。ただし裏面には張りません。打面専用で,その組み合わせで鳴らし切れるドラマーは日本人では限られてきます。プロはセットを見ればそれで一目でわかるので,これはもうおかもっちしか無理だ,というのはありました。
リハ中は岡本さんの後ろで体育座りして一緒に聞きながら譜面を立って見たりしていました。シンコペーションとか自分は譜面についていけないこともあったんですが,岡本さんは当然それができて,本番では2回くらい録って,それで「お疲れ様でした」で終わり。それで今と逆の作業をして片付けるわけです。
何かの仕事で藤丸さんとスタジオで一緒になりました。岡本さんにコーヒーを買ってきてくれと頼まれて, そうしたら藤丸さんの分も一緒に, ということになって。紙コップでミルクとか砂糖とか選ぶのありますよね? あのタイプの自販機で, コーヒーを2つ買って, 熱いから上の方を3本の指でそうっと持つわけです。それで, スタジオは扉が二重なので, それをそうっと床に置いて, 最初の扉を開けて, それを閉めて次の扉を開けてまたそうっと持って床に置いて, 内側の扉を閉じて, 岡本さんと藤丸さんに渡して, 自分の分を買いに行こうとしたら, 藤丸さんに, 「自分の分も一緒に買って来ればよかったのに」って言われて, こんな熱いモン3つもどうやって持つんだ!ってあのときはさすがにツッコミ入れたくなりました。入れませんでしたが。(笑)
その頃から天然入ってましたね。(笑)
彼女がスペクトラムが好きで直樹さんのファンだったので,えらそうに「今度紹介してやる」って言って,つれてって紹介したんですが,直樹さんに「僕の彼女で直樹さんのファンです」って言ったら「あ,そう。」で終わったとか。(笑)
自分がアマチュアバンドとかやり出して, (何をやるかってことで希望を聞くと)カシオペアとかAB'Sとかって入るので,やっぱり有名なんだなって。そのときのドラムのボーヤですとは言ってないんですけど,やっぱり凄いんだなあと。あまりにも近くに居すぎたので当時はわかりませんでした。
ここまでで時間切れ。以下は2013年1月に行ったインタビュー(続き)です。上述箇所と多少重複がありますがご勘弁くださいませ。^^;
朝迎えに行ってコーヒー飲んで。コーヒーの時間も計算して行ってました。(笑)車に乗って岡本さんが運転して, エンジンかけて, どこだっけ?ってこともたまにあったりして。(笑)まだ当然CDはなくてカセットで。 (岡本さんは)1ヶ月に1回仕事の合間にタワーレコードに大人買いをしてました。5枚とか7枚とか10枚近く。その中にはそのあーティストではなくジャケットで買うときもあって, 自分の目当てのアルバムも買うんだろうけどそういうのも入ってました。モヒカンのジャケのを買って「このアルバム, この腕は絶対凄い」といって買って, 後で聞くと大したことなかった・・・とか。
フェイゲン(Donald Fagen), ビル・チャンプリン(Bill Champlin), ジェフが叩いてるの, ジョン・ロビンソン(John Robinson)のを買う。買うのは100パーセント洋物です。菊池ひみこさんは結構いろいろやってました。向こうで当時アルバムを作ってて, おおどうだった?ドラムはジョン・ロビンソンだった, とか, スネアはばかんとしてた? とか, そういう会話はしてました。
(菊池ひみこさんの場合)82年は(演奏)メンバーを見ると, 国外で録ったアルバムが国内のより前なんです。国内はそのあとで。市原康さんと岡本さんの起用は, 完全に曲によって分けてましたね。
車より岡本さんとは, 新宿の焼き鳥屋とかで飲みながらよく話をしました。
女の話か・・・。(笑)信号待ちで止まると, 女の子, お前なら赤と白と青, どれ? って。なるほどなあ, 同感って時とあるし, どういう趣味してるんだ, みたいな目線の時もありました。音楽の話題より車ではそういう話題の方が多かったです。(笑)ああいう環境だから, AB'Sの練習の時もそうで, 喫茶店なんかで細い人がいたとき, 「あの細さのレベルは直樹のレベル?」「そう, あれは俺の標準」みたいな話が出てました。直樹さんは細い人か好きなんです・・・って, こんなこと載せてもいいのかなあ?(笑)
Rogersのスペクトラムの時に使ってたのが夏までです。茶色でした。AB'Sをやるってことになって(岡本さんが)楽器がどうのこの言い出して, 何をこんないい音するのにもったいない, って言ってたんですが, どうせバンド(AB'S)も始めるし欲しいと言い出して。
SONORが出だした頃でSONORにしようか迷ったんですが, Rogersにしようということになりました。シリーズとかは知らないけど色はAB'Sなら赤しかないって僕が言ったから赤に。藤丸さんと直樹さんも赤に全部って言ってたくらいで。レコーディングの2〜3週間前に買いに行きました。ただケースが無くて, まあケースなんてなんでもいいよねっていう話になって, 僕が同郷にジミー竹内のボーヤがいて。ご存知ですか?
世良譲とやってたり・・・
ジミーさんがPearlの元祖モニターで権限があったんです。自分にも良くしてくださってて, ケースを半額で手に入れました。
そうです。Pearlのケースに入れてました。
AB'Sのレコーディングは(この時買った新しい)赤でやりました。シンバルはAジルのRock Ride Heavyという重たいヤツ。ハイハットも14インチのNew Beat Hi-Hat, 裏表逆に使って。今は13インチのジルジャンのはずです。こないだボーヤが集まった飲み会の時に, 4〜5時間籠もって選んだって自慢してましたが, 皆, あ, そうって。(笑)
あの頃はサイドシンバルが3枚あったのかな? 左側が16インチのThin Crash, ライドのすぐ右側にあったのはちょっと忘れました。右側のサイドは, Midium Thin Crash 18インチだったと思う。スウィッシュやチャイナは当時は使ってませんでした。つけたらとは言ったんですが, まあいいかで流れてます。家には置いてあって, これどうするのと聞いたんですけど, めんどくせーじゃんとか言ってました。
5月くらいにOFFの日に手入れをすると言って全部ばらしたことがあります。そのときに「楽器拝見」みたいに家の中を見て。アルバムに隠れてお宝のようにスペクトラムのドラムの原譜とかがいっぱいあって。
レコーディングのときのです。もらったつもりだったんですが多分そのまま岡本さんの家に忘れてきちゃいました。あのときちゃんと受け取っていればよかったんですが。多分岡本さんはもう取ってないと思います。アルバムとアルバムの間にいろんなものがはさまっているはずで, 片づけたときに譜面は譜面, と整理してればいいんですが, 「紙はゴミ」ってしてたらだめですしね。「あがき」の譜面は見ました。本物でした。「おまえの好きな『あがき』もあるぞ」と言われました。
ドンペイさんが書いたのかなって言ってたような気がしますがわかりません。奥慶一さんかも知れないです。あのとき紙がいっぱいありました。今思えばスペクトラムの楽譜ですよね。その楽器部屋にドアを開けて右の部屋。前住んでた人がクラシックをやってて防音になってたので, リスニングルームとして使ってました。3LDKで1階 だったから庭があって。(岡本さんとは)お互いに(ドラムを)ばらすのはやらなきゃと言っていて, 一度きちんとチューニングしたいということは言って。ヘッドの回り…リムの回り, スティックのカスだらけだったんです。それで一度きちんとしなきゃと。そういうのをするのはお前の仕事って言われたんですが, 楽器を出すのは現場だしそこで出して掃除するわけにはいかないし。ということで, やるならこの日しかないということでやりました。OFFの日?にやった気がします。
いつも心配してたのはペダルのバネ。1コしかないけど大丈夫?ってのがいつもありました。あんまり言わなかったけど予備がなかったのでどうなるんだろうと心配してました。任されてた境界線が僕と岡本さんとの間で責任が曖昧だったので。今みたいに楽器ごと全部預かってたら, いるモノはいるで「お金くれ」と言えますけど, あの当時は車も楽器も岡本さんで楽器は現場でしか見られなかったので。(バネは)1コでもないと仕事にならないので。
ヘッドは絶えず心配してました。スネアとバスドラですね。特にバスドラのヘッドは持ち歩いてなかったので。当時はタムからホルダーで出していて, 今のようにラックなんてなかったので, バスドラいったら(=ヘッドが破れたら)換えるの大変だなあとは思ってました。スネアも1コしかあの頃は持ってってなかったんです。
YAMAHAのスネア。スペクトラムのファーストがスリンガーランドですね。
エピキュラスの藤丸さんのライブってスナッピーが切れたやつですよね?
仕事がやりやすい環境, 忘れ物, 置き忘れ, しまい忘れをしないこと, です。仕事が入ってるのにスネアを忘れたら大変なことになりますから。車に積み忘れると盗られる危険性もあります。スタジオの中に忘れた分にはまず大丈夫なんですが。フットペダルとスティックケースは, 箱にしてからケースごと忘れる可能性が高い。そのときにだいたい確認するから分かりますが。とにかく忘れ物はしない。下ろし忘れはしないこと。セッティングは確実にきれいに。僕のこだわりでもあります。あとは, 毎回ではないですが、たまに叩いてちゃんといい音が出ているか。残響が残らないようになってるので大丈夫なんですが, 変なびびり音が出ないかをたまにチェックしたり。あとヘッドがだめならヘッドを換えて。特にスネアですね。
それはやってなかったです。当時はそんなことは言われたこと無かったですね。
なし。
叩いてるのを聞いて, ですかね。セットアップして時間があると勉強するんですが, 外から聞かれてて, なんだそれはもたってるとか今のフレーズはなんだとか言われることはありましたけど。
教えてといえば教えてくれることもたまにありました。機嫌がいいときは(笑)フレーズを聴くと教えてくれました。『あがき』の6連符のとか。理論上は教えてくれました。手足のパターンとか。あと, そういうことやる前に読譜力を上げてきちんとしたリズムができないとプロには慣れないぞと言われました。Steve Gaddみたいなことはできなくても, きちんとしたリズムができれば仕事は出来る。それができた上でいろいろごちゃごちゃやってみろと。技術先行で載ってくると走る。プロとアマチュアの違いはそこですね。
AB'Sは何も知らずにひとつ午前中に仕事があって, 昼前かな?それが終わって移動するとき六本木の喫茶店に行きました。みんな一緒だったのか集合したのか憶えていないですが, そのときにAB'Sのメンバーが集まってました。それ自体は(そこにいるメンバー)皆知ってるだけだったので普通に挨拶をして, AB'Sのメンバー, 藤丸さんのボーヤの杉田君, 誠さんのボーヤの西野君が, ここ(デニーズ ^^; )でいうふたつ向こうの席で, ボーヤはボーヤでくだらない話をしてました。まあ普通にお茶を飲んでるんだろうと思ってました。1時間くらい喫茶店にいて. じゃあねって感じで別れて, 次の仕事に行くときに「今のメンバーでバンドを組むことになった」と車で聞きました。「何やるの?フュージョンやるの?」って聞きました。「いや, 藤丸さんが曲を作るみたい, 今誘われたんだ。」「ああそうですか。」みたいな感じ。
それから数日後, 早川さんというマネージャーが担当になって, 最初は六本木辺りの練習スタジオを借りて練習しました。そこで何回かやってましたね。地下にあってエレベーターがなくて階段しか無くてドラムを下ろすのがとても大変で, 「練習だからここ(スタジオ)のドラムを使って」と言ったら, 「いいよ」ってことになって, スネアとシンバルとペダルのみになりました。椅子もおろしたかもしれません。今から思えばファーストアルバムの練習をしてましたね。藤丸さんと誠さんと, 藤丸さんが, 「俺この曲はここで歌ってるからまこちゃんソロ弾いてね」, で, 誠さんが「ああそうか」というよううなことがあったり, 直樹さんが自分が弾きたいフレーズがあったみたいなんだけど, 「歌につられちゃうから, こういうふうにしたって俺決めた!」みたいなことをおっしゃって, 直樹さんもそういうことがあるんだなって思いました。(笑)歌いながら弾くって大変だなってそのとき思いましたね。レコーディングの時はいいけどライブで再現しないといけないってのがありますからね, あの方達は。
各パートは各自のセンス。(岡本さんは)ちょうどThe Nightflyの影響で, HHの開け閉め, すごく影響を受けてます。In the City Nightはその影響を受けてます。最後から2番目の曲(Goodbye Look)。これカッコいいよなって。「シンプルだけどできねーぞ」って言ってて, あのときあれが結構新鮮で。
多分そうだと思います。Asian Moonもそうじゃないかと。そのまんまじゃなく発展させてるところが凄いですよね。だからThe Nightflyを聞いても,すぐピンとくるってことはないと思います。
直樹さんが口を出すときはユニゾるとき。あと, キメとかは結構言いますね。二人の中で暗黙の了解があって。顔を合わせてにこっとする。
Deja Vuのイントロのドラムは多分岡本さんが作ってます。僕も相談されてないし。僕が知らないところで話があったのかも知れませんが。あと、藤丸さん(がボーカル)のAsian Moonの3連のキメを作る, あれは口出ししました。「そんなイモではいかん」って言いました。(笑)ちょうど真後ろにいたので。「だめ」って言ったら, 「だめ? どうしよう」って。僕が「フラムとか装飾音符がないと」って。最初はもっとシンプルで, 曲がひらぺったいのとリズムが単調なのでそれにあわせたんだと思うんですが, 僕の好みじゃ無かったので, 「それちょっとやばいですよ」って話をして, 岡本さんが「そう?じゃあどうしよう」と。「まあ時間あるからゆっくり考えたら」って。譜割は『タタタタタタ』なんですが, その前のところですね。間奏の最後です。
あちこちで練習を積んで・・・ 5月くらいから練習をやったのかな? AB'Sをやるって決めたのは3月〜4月くらいで。名前が決まったのはずっと後で6月とか7月とかその頃で。スタジオの中で練習してて, 外にボーヤがいて, 早川さんが来て, 「おーい名前決まったぞ, お前血液型何型だ?」って聞かれて「B型です」って答えたら, 「おお, だったらいい, いい, いい!」って言われて。あとの二人(藤丸さんと誠さんのボーヤさん)は覚えがないですね。第一印象としては「結構単純」と思いました。(笑)それまでは「藤丸さんのバンドの練習」とか「今度のバンドの練習」とか言ってました。そのあとレコーディングを伊豆でやりました。あれだけの短期間であれだけ曲を作ってアレンジをして。あの頃は本当に見たギタリストも全員凄い人ばかりで, そういう人たちをすぐ身近で見られました。だから, その頃たまたま聞いたアマチュアはひどかったです。下手に聞こえるんですよね。
あれは岡本さんが言い出したんです。誰のドラムを見て言い出したのかわかりませんが。「これからはマッチドだ」って。ポーカロの話もしてたので, それに影響を受けたのかもしれません。「スネア=ばかーん」で, でかい音を出した方が勝ちみたいな美学がありました。「俺こっちに変えてみる」という話になって, すぐにマッチドに出来ちゃって。基本が出来てる人は違うなと思いました。
ああ,そうなんだ。
青春のいい思い出。音楽の神髄を知った瞬間。厳しいところ楽しいところ, プロとはなんぞやみたいなところを教えてもらいました。
「ドラマーうらっ酒」の全て。基本中の基本。自分が目指した人ですから。
リズム, ハイハットの含み感と, ワンショットで分かるスネアのタイトさ。これに尽きます。含み感というのは, 彼女がいて, 好きって言いたいんだけど言えないようなハイハットの音。(笑)
その音色というのが, 表が厚くて裏が薄いからなのか, 叩き方によるところなのかはわからないんですが。あのチック音, クローズのときの音のアクセントの付け方が, 非常に含みがある・・・ところが・・岡本さんかなあと。
あと, フレーズの使い方とか, 聞いてて安心できる世界一のドラマーです, 僕にとっては。それとアンバランスのようなスネアの音。パワフルなところと繊細なところの融合。
ハイハットに関してはどの音にも含みがある。あとは, ドラマーじゃ無いとあの人のすごさはわからないかもしれない。あれやらないとできないよってこと, ドラムを経験した人があのドラムを見るとそう思う。
AB'Sのドラムを完コピ出来る人は結構少ないと思います。
そう思います。
どうぞどうぞ。^^
それまでは持ってなかったんですが,岡本さんに言われて同じようなのを買いました。それからだから4月からになってます。
この「1〜4」って書いてあるのが岡本さんの字です。僕のは13:00〜16:00って書くので。嫌なんです,こういうの。(笑)それで,あとで書き直してます。これ(「10〜2」)なんか凄いですよ。
スタジオ名です。
ジャズダンスです。ミュージカルですね。ここ,いい音がするんですよ。水道橋にありました。
かもしれません。赤が来たってことで取りに行ったのかも。渋谷のYAMAHAですね。きれいなお姉さんの店員さんでした。
日本消防ホール。僕はこのときは頭痛で寝てて。これはサポートです。
岡本さんは先に行って,僕は杉田君の車でいきました。藤丸さんの楽器車です。着いたら箱だけスタジオ内に下ろしてあって,本人達はいませんでした。
藤丸さんの楽器も下ろしてあったので,杉田君と一緒にまず岡本さんの楽器と,その上に藤丸さんの楽器を台車に載せて運びました。ものすごく念入りにチューニングをして,夕方に伊豆のなんとかいう電車で岐阜に帰りました。
六本木です。そういえば当時直樹さんは岡本さんのことを「ハマさん」って呼んでました。なんか,そういうイメージだとかで。
あと,当時は「日本のスティーヴ・ジョーダン」とも呼ばれてました。
あったと思います。当時二人とも「バックペイジ」ってインペグさんがやってて,敢えて一緒にやってたようです。この二人は完成されてますからね。
川越球場。オムニバスか何か。桑田佳祐とかも出てたんじゃなかったかな?
Jaco Pastoriusですね。岡本さんと武道館に見に行きました。
エピキュラスはあみんもやってるんで。
やってます。
この,これが結構大変なんです。けつかっちん。上が12:00までで,その次が12:00からになってますよね?
六本木ですね。これは指名なんです。この後ろのが岡本さんの指名で,遅れてもいいから来てってパターンで。こういうのがいちばんプレッシャーなんです。迷惑かかるからとにかく急がないといけない。逆に,こういうの(2つ続きで同じスタジオのお仕事)は楽なんです。
同じです。だからセッティングの手間が省けます。あ,あと,これはナメ猫の録音です。
60年代の音を出せって要望でした。
それは勝新太郎さんのバックです。
何しろ大物中の大物なので,23日にもあるでしょう? これがそれのリハです。特別にリハをやったんですね。
あと,「汚れた英雄」の劇伴もやってます。12時間くらいかかって。アバコ(スタジオ)でスクリーンに映画を映しながら録って。フルオーケストラで。映画見るとよく分かりますよ。スネアがばしっと音としてますから。^^
そうです。裏にはREMOのクリアをつけてたと思います。
YAMAHAのスチール・・・メタルですね。エピキュラスではさっきの話ですがスナッピーが切れたので,スネアを2〜3回換えた覚えがあります。
どうぞどうぞ。^^
お礼: 2012年11月と2013年1月の2回にわたりデニーズ ^^; でインタビューさせていただきました。おかげさまで凄まじく濃い内容になりました。^^ ありがとうございました。m(_ _)m
うらっ酒さんのメモ帳から,当時のおかもっちのお仕事の様子をご紹介すべく,メモ帳の内容を転記してみました。どのアーティストのお仕事なのか等は元々メモ帳に一切書かれておりません。また,場所についても記号や略語で書かれてますが,そのままのほうが味があるので(?),そのまま掲載してみました。^^
なお,メモ帳には,「岡本式パラディドル」なんて譜例のメモも挟んでありました。^^
手帳表記が始まった4月9日から12月31日までのいろんな記録を数えました。
純粋にOFFの場合と,おかもっちがお仕事が入ってるけどボーヤとしてはOFFの場合とあります。^^ が,一緒くたにしました。^^;
リハーサルと書いてあるのはカット。開始と終了時刻が両方記載されているスタジオワークのみ時間を足し算しました。^^
秋以降は土日もばんばんレコーディングが入ってきてます。さすが80年代J-POP隆盛期!!!
アルバムから1982年4月21日〜5月30日,KRS recording studioとALFA studio"A" Sound Inn A&Bと判明しているので,この日程でこの場所でのレコーディングを拾ってみました。
つまりこのライブの前日にこの師弟はJacoのライブに行ってたことになりますわね。^^;
オリジナルリリースが1982年11月25日,スタジオは六本木CBS SONYとStarship, 藤丸さんのアルバムリリースがレコ終了から約2ヶ月後なのでそれを参考に,9月くらいと予測の上。^^;
おかもっちのお仕事は信濃町SONYが殆どで,この時期だけ異様に六本木が多いです。しかも1回が長い。^^; ライナーノーツによると桑名晴子さんのMoon Light Islandのレコーディングでは晴子さんは寝てばかりいて ^^; その間に藤丸さんたちがさくさくと作業を進めていたようなので,通常のレコーディングより時間を掛けて作ってる可能性もあります。さて,上記の中で桑名晴子ファーストアルバムレコーディングを行ったのはいつでしょう? ^^;